以下は会報(NO.10)の一部を再編集したものです。
| ペンリレー ヒマラヤに挑む |
| 〈100年を迎えた日本山岳会〉 日本山岳会は1905(明治38)年10月14日、東京飯田橋で発起人7名が初会合を開き結成された。それから100年の2005年、日本列島の分水嶺踏査などの企画がなされた。全国各支部へも独自の記念事業を実施するよう指示があった。 富山支部はギャジカン峰を 富山支部は2003年の総会で海外への登山隊を出すことになり、4人の実行委員を決め、私がそのチーフを拝命した。これはエライことになった。でもやるしかない。 早速その年の7月9日、第一回目の実行委員会を開催。何回かやっているうちにネパールヒマラヤのギャジカン峰(7038m)ヘ挑戦しようということになった。隊員も決まり、立山での雪上訓練、富士山での高度順応等を経、05年8月31日富山駅から出発した。 ベースキャンプ(4830m)へ 9月1日、12時半ごろ(現地時間)カトマンズ着。共同装備、個人装備の点検と発送、トランシーバーの使用許可や日本大使館への挨拶等を済ませ、9月4日キャラバンを開始する。その日は車で行ける最終地点のクディまでの計画だった。「これからのキャラバンはどんなものか」という不安と期待を抱きながらランドクルーザー3台に分乗して出発。車が郊外に来たとき、真ん中を走っていた車の右側後輪がパンク。日本のように「一寸移動すれば修理が出来る」という訳には行かない。時間が過ぎていく。 やっとタイヤを交換して走り出したのだが、しばらく走ったところで交換したばかりのタイヤがまたパンク。何ということなんだ。また作業。辺りが暗くなってきた。「早く目的地へ行きたいのだが・・・」と思っていたとき、「今日はこれ以上前進出来ない」というのである。エッ!?ライトを点けて走行すると「マオ」の標的にされるので危ないというのだった。「マオ」とは毛沢東の「毛」の発音だが、「武力で革命を・・・」とした晩年の毛沢東主義の連中がネパールで暗躍していて登山者からも「通行料」と称して金品を要求するのだ。そんなことで急拠ここベシサールで泊まることになってしまった。翌朝は6時出発、6時30分クディ着、後は歩くのみである。 高温と雨が続いた。草むらを歩いてテントに戻ると蛭が足に食いついていることもあった。またある日、着飾った女性達とすれちがった。何回も逢うので聞いてみると「女性のお祭りがある」のだった。橋のない谷も渡ったし、見事な滝も見た。凄い断崖も通った。「こんな所にも桃源郷が」と思ったり高山植物のきれいさにうっとりもした。 歩き続けて10日目の9月14日、やっとベースキャンプ(4830m・以下BC)に着いた。(うれの会のみなさん、毎日5〜6時間を歩いてみて下さい。) でもBCへ着いたら気持ちが一転。そこから目指すギャジカン峰も見えて気も引き締まってきた。テントは普通4〜5人用のものを一人で使ったのだが、個人の荷物も意外とあるものでそれ程広くはなかった。 (以下次号に続く) |
![]() |
![]() |